不定期に書く「自分の過去を見返る、わたしの13歳の中二」は、もう無い。と思うんです...けどね、ぽつ、ぽつ、と思い出す・・・『ぽろぽろ』するのは・・・あまり好きじゃない。
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確か、国語の授業に「俳句」があったのは中学生だった、ような、記憶があります。(小学生の頃にもありそうなものですが・・・)授業と言っても、俳句の基礎基本「五七五」や「季語」を使う程度の「こういう文化があるんだ」ぐらいで、と同時に「辞書に親しむ」課題だったような記憶があります。
わたし自身は、「季語」は時々興味がある、ものの「俳句の技術」はまったく知識が無く直感も無い。(しかも、わたしは、技術的拙劣(古拙や幼稚)な出来事が<気に成る>らしい。)
学生時代に「連句会?の発祥地である名古屋」に母校が近かったので、連句に接する気概がたまたまあり、主催の教授がわたしを含めて一般人を温かく迎え入れて貰えた事は想い出です。まぁ、俳句の技術に立ち入らない方が善いとも思ったんですけどね。
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最近まれに見流す、某TV番組で俳句の解説を聞き流して・・・なんとなく「ぁぁ。鈍い、のろい、重い、滞り、塞ぐことで分かち合いをさせる、嫌がらせ、は・・・読んで疲れる。そりゃ、却下だわ。」と分ったよ。疏通と言うほどは判らないけどね。
2つ。
<技術→表現に「巡らせる」工夫>が溢れて<擦れ合っている、のに、触感が軽い、軽み、軽やかさ、乾燥してさらり滑る>、淡白あっさり系の執着(陰湿、粘り、拘り)の無さ、思い切りが良いぐらいに一本筋に絞りむ作り込みにコンセントレーション統一(芯)が観える、軸の振れが小さい。
<発想→発見力>が発明を生じさせて革命する、そこに<尊ぶ、親切、すがすがしさ清涼感;発想を心中から開き放つ様子がリラックス>がある。
2つなのかな。
二本立ての発想と技術、で、目に見える事柄、目に見えない世界を「伝える表現」が俳句。
たとえば。
日常感が鼻につく→猥雑、ごたごた雑多、ごちゃ混ぜ。
目を覆うやましさ→隠蔽すること、忌事、薄暗さ、後ろめたさ。
尋常→可笑しみ、うがち(穿:牙で穴を掘った穴居:潜み隠れ尋常な人情を巧みに把握して指摘する表現、人情(機微、特殊な事実、穴が有ったら入りたい恥じらい、新奇、奇抜やユニーク)の案内とするもの)。
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